大アジア主義は可能か

戦前、大アジア主義と呼ばれる思想と運動の潮流があった。明治維新後のわが国は、天皇を中心とした国家の近代化を推し進め、日清・日露の大戦争に勝 利し、幕末以来の懸案であった列強との不平等条約を改正してアジアの有色人種のなかで唯一、西欧による植民地化を免れ国家の自主独立を貫徹した。

この事実は、西欧列強の植民地支配にあえぐアジア民族に計り知れない勇気と希望を与え、それらのアジア諸国の多くの指導者が、我が国を模範とした民 族の自立と国家の近代化のために立ち上がるきっかけともなった。その結果、多くのアジア諸国から独立運動の指導者や学者、文化人が我が国を訪れ、我が国は なかばアジア民族解放と復興の拠点とみなされるようになったのである。

しかるに日露戦後、薩長藩閥が牛耳る我が国の政府は、明治維新以来の国是であった国家の近代化を推し進めるあまりに欧米自由主義思想の蔓延と国民道徳の荒廃を招き、また国権の伸張に邁進するあまりに隣邦アジア民族の置かれた西欧への隷属状態に無関心になりがちであった。そればかりか、1902年に成立した日英同盟によって従来の欧化路線にいっそう拍車がかかったわが国政府は、脱亜入欧よろしく西欧列強の覇道に追従しアジア大陸への領土的野心を顕わにしだしたのである。

こうした政府の打算的な西欧偏重路線に対抗し、在野の立場から敢然、アジア独立の道義を主張し、それを命がけで実践したのが大アジア主義と呼ばれる 思想と運動の潮流であった。この大アジア主義はもともと、大久保利通の近代化路線に対抗して天皇を中心とした国粋の保持とアジア共存の道義を説いた大南洲こと西郷隆盛に淵源し、西郷が城山で自決した後は、頭山満率いる玄洋社の系統によって継承された。

かくして大アジア主義の系統に連なる志士たちは、国内では欧化路線に偏重する政府を在野から牽制し、アジアから我が国に亡命してきた独立運動の指導者を政府の追跡迫害から保護し献身的な支援を与える一方、海外では風雲急を告げるアジア大陸に雄飛し、あるときは乞食同然の境遇に身をやつしながら各地の情勢を踏査しアジア民族の復興に奔走した。

その際、そうした志士たちの元締的存在となったのが前述した玄洋社の頭山満である。彼は明治以降のわが国政界に隠然たる影響力を発揮して薩長政府の 元老に睨みを利かせ国家の無節操な欧化路線を阻止したのであった。たとえば、不平等条約の妥協的な改正案に反対し外務卿の大隈重信に爆裂弾を投擲した来島恒喜も玄洋社の社員であり頭山の同志である。

他に頭山が西郷精神の継承者としてアジアの独立に残した顕著な功績としては、当時、祖国を追われ我が国に亡命中であったアジア独立の指導者たちを政府の追及から保護し献身的に支援したことである。それらの人物には朝鮮の金玉均やシナの孫文、インドのビハリ・ボースなどが含まれていた。

ところで頭山満の玄洋社をはじめ、大アジア主義の運動が時代を画する一潮流になりえたのは、明治政府や帝国議会の中に、彼らの運動と相呼応する政治家や官僚の存在があったことを見落とすことはできない。例えば外務省の政務局長を務めた山座円次郎は、頭山と同郷の盟友であり、日露戦争の前夜には大陸で活動する大アジア主義の志士たちを政府の立場から積極的に援助した。

また政界においても、日露協商派の伊藤博文に開戦を決意させるのが困難と見て取った頭山は、衆議院の神鞭知常(こうむちともつね)や河野広中らと対露同志会(会長・近衛篤麿)を結成し、彼らと連名で明治天皇に政府弾劾と日露開戦の奏疏を奉呈したのであった(詳細は拙稿「兵馬の権、何処にありや-対露同志会による日露開戦の奏疏」(呉竹会『青年運動』平成24年11月号)。

このように、頭山を筆頭とする大アジア主義の運動は在野の運動でありながらも、ときには国家的共通目的のために挙国一致、朝野一丸となった国民的運動に他ならなかった。特に日清・日露の両戦役に際しては、国家の尖兵としていち早く大陸に活動していた浪人たちが戦地の地理や風俗などの詳細精密な情報を我が軍に提供しその作戦に裨益するところ大なりであった。

頭山満が「五百年に一度の英雄」と讃えた荒尾精はそうした大陸浪人たちの先駆である。もともと彼は明治陸軍の将校であったが、参謀本部のシナ部付を拝命したことで大陸雄飛の宿願を成就している。その後、商家に身を扮してシナ各地の実情を調査した結果、日支提携の必要性を痛感し、両国の貿易振興を目的とした日清貿易研究所、後の東亜同文書院を創立した。

この研究所からは、清国改造を志し、明治初期の我が国民としていち早く新疆の偵察に赴いた浦敬一(詳細は「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一」呉竹会『青年運動』平成24年4月号)や、日清開戦に際し軍命を帯び遼東半島の敵情視察に赴いた結果、断頭の露と消えた「三崎」こと殉節三烈士(詳細は呉竹会『青年運動』平成24年8月号)など、シナ大陸の言語や情勢に精通し戦時は通訳官や情報将校として活躍した多くの志士たちを輩出している。なかでも上述した三崎の一人、鐘崎三郎などはその国家への顕著な功績を認められ、明治天皇に拝謁する栄誉に浴している。

このように、荒尾は事業家としての才幹を如何なく発揮したが、同時にシナの情勢や広く東亜の経綸に関する優れた論考を数多く残している。なかでもその代表格に挙げられるのが万世一系の皇室を宗家とし国民を支家となす我が民族の生い立ちとその世界史的な天命を説いた『宇内統一論』、日清戦争の最中に講和後の両国提携を展望した『対清意見』とその反論への再反論である『対清弁妄』(詳細は「東亜の先覚、荒尾精の『宇内統一論』を読む」呉竹会『青年運動』平成24年2月号、「荒尾精の『対清意見』」同平成25年2月号)である。

荒尾の思想が重要な意味を持つのは、彼の大アジア主義が強固な尊皇思想を根底とし、アジア民族との提携はその論理的帰結として捉えられていたことである。この点が、同じ大陸浪人でも、天賦人権論を根底としたユートピアニズムによって孫文の革命運動を支援した宮崎滔天らと荒尾が一線を画する所以なのであり、また皇室の敬愛を玄洋社の社則に掲げた頭山らと彼が相通じる所以なのである。

以上見たように、大アジア主義の運動の特徴は、第一に政府の欧化路線に対抗し国粋の保持を掲げる在野の運動であったこと、第二に覇道による国権の伸張を是 正しアジア民族の間における共存共栄の道義を志向したこと、第三にそれでも天皇を機軸とする民族の独立と国家の利益を目的とする点で政府の立場と完全に合 致し必要とあらばお互いの協力を惜しまなかったことなどに見出される。翻って今日の状況を見るに、その対照は言わずもがなである。